人生の先輩方へ
今まで沢山のものを発明したり、生み出してきてくれてありがとう!
まず、感謝を述べたい。
きっと汗水垂らして頑張ってきてくれたからでしょう。
あなた達がいなければ、私は、エンターテインメントはおろか、電気をはじめ生活インフラなど生活基盤になるものすらままならなかったでしょう。
しかし、しかしですよ。
最近のFacebook等で目に余る若者批判はいかがなものかと。
若者は、沢山のものから離れていて、無気力で何が楽しくて生きているのか、というご批判を目にしました。
実は、これに物申したい。
というのも、あなた方が作ってきた時代の延長線上に我々は生きており、少なくともあなた方の影響もあるわけであります。
特に経済的な影響が大きいです。
あなた方がバブル期に、仕事終わりにディスコに繰り出し、実態のない経済に踊らされ、金をばら撒き、自己研鑽の努力もしてこなかった。そうした方々が、年功序列のルールのもとに、会社の中核を担えば、そりゃ日本の経済は弱いですよ。
あなた方が衰退させた経済が、我々若者の生活を苦しめ、沢山の興味関心を制限させているのです。
そのことに気づくべきです。
また、あなた方の自堕落な生活を見て、嫌気が差しているのも事実です。
だから飲みに行かず、家で勉強したり、そうした飲み会離れが増えるのです。
何かから離れれば、当然、何かに近づく。
今までの尺度で計れば、離れている距離ばかりに目がいくかもしれないが、そうじゃない事実もあるのだ。
〇〇離れという名称で若者を揶揄するのは、やめたほうがいい。文化は流転する。変化するものだ。それに気づく大人が増えてほしいものだ。
最後に、私も書きながら思ったが、我々若者と名乗れるのはいつまでだろう。
テレビ朝日御中
テレビ朝日御中
テレビを拝見していて、気になったことがあったのでお伝えさせていただきます。
毎週火曜日21時より放送中の「そんなコト考えた事なかったクイズ!トリニクって何の肉⁈」というクソ番組についてです。
この番組は、主に「昭和生まれ」が出題する常識にも近いようなクイズに「平成生まれ」が非常識という役割を背負わされた上で“非常識回答”を連発し、それに対し、「昭和生まれ」の出演者が馬鹿にする形を取る「お下劣マウントバラエティー」です。
こういう番組を制作される方々の方がよっぽど“非常識”的考えであると私は思います。
そもそも「平成世代」を育成した「昭和世代」の能力不足でしょう。
昭和世代の詰め込み教育の揺り戻しで、平成世代には「ゆとり」ある教育を受けさせたいという「昭和世代」の要望だったのではないでしょうか。
それをあなた方が育成に失敗したからと言って、「これだからゆとり世代はー」というのはお門違いというしかありません。
まず、私は、平成生まれでして、平成生まれと一括りにされ馬鹿にされることに快い気持ちは抱きません。不快ですし、カテゴライズされ、馬鹿にされることの愚かさは今までの歴史が示してきている通りです。
黒人差別やアジア人差別、士農工商、カースト制、魔女狩りなど、一括りにし、十把一絡げにし、同じイメージを植え付ける。
時には、プロパガンダ政策の1つとして利用してきさえもしたが、その施策が上手く行った試しを私は見たことがありません。
そもそも私が大のテレビっ子で、テレビ無しに生きていけなかったほどでした。
東日本大震災の直後は、緊急性の高い報道内容がテレビを通して、全チャンネルで届けられ、バラエティー番組の復活を首を長くして待っていたくらいです。
もちろん、私とは比にはならないほどの悲しみやつらさを経験された方ばかりでしょうが、テレビの内容が日常に戻ることで私の日常性も再び訪れました。それほどテレビが日常生活の中に息づいていたということです。
最近では仕事も忙しくなりなかなかテレビを見る機会も減りましたが、このコロナ禍において、自宅での時間が増え、本日初めて上記の番組を目にして、唖然としました。
あまりに馬鹿にしているその内容に。
私の知り合いにもテレビマンの方もおり、非常に才覚に溢れており、優秀な方がたくさんおられる世界だと存じ上げております。
しかし、この番組に関しては看過できません。
この番組に巣食う悪循環について説明しておきたいと思います。
まず、若者のテレビ離れを助長するきっかけにしかなり得ないということ。
昨今のネット環境の充実により、若者・若年世代はテレビよりもインターネット上より情報を得る機会が増えています。
即時性やユビキタス性など、理由は多層的にいくつもあるとは思いますが、「テレビコンテンツの凋落」ということは理由の1つにあると思います。
これはむしろ、テレビ業界の人が自覚して欲しい点です。
なぜならば、テレビの日本全国に張り巡らされたネットワークや報道のシステムは、簡単には変えがたいほど膨れ上がり、ビッグメディアと呼ばれるまでになりました。むしろ問題はそこではなく、やはりテレビ業界に変えられるのは、その内容です。
私は教育機関で勤務していた経験がありますが、テレビの取材はあっても、YouTubeの取材はありませんでした。
それは信用の差だと考えております。
テレビには、ビッグメディアという名を冠するほどの「信用」がこの日本には築かれているのだと感じます。
故に圧倒的なアドバンテージはあるはずなのです。
私は一時代から急にテレビ番組の方向性が変わったことを感じました。
それは「クイズ番組」の増加です。
ある一時を境に「クイズ番組」が急増したのです。
クイズ番組は、製作費が安いからです。
まず、クイズの制作者へのギャラを払い、出演者・司会へのギャラを払い、ロケにも行かないので、その辺のお金を掛からない。
非常に安価に番組を制作することができます。
これはむしろ制作者側ではなくスポンサーや広告代理店に問題があるのかもしれませんが、それでもテレビを応援するからこそ、ここは何とか踏ん張って欲しかったところです。
こうしてテレビはつまらなくなった。
だって、おバカアイドルやおバカタレントを演出に使い、アホな発言を引き出す。
大学進学率が高まり、6割近くの若者が大学進学する時代になって、そんなアホな発言を見る時間は、バカが移るので無駄です。
そして、その発言のほとんどが演出であることに気づき始めます。
故に本当の情報を得たいとネットに流れていくことになるのです。
今では、テレビを見るメインのステークホルダーは、40代以上の「昭和世代」でしょう。
今のテレビは若者のテレビ離れを無視し、「昭和生まれ」に阿って、視聴率が稼げればいいのでしょう。
選挙と一緒ですね。若者は少子化で少ないから、投票率が低く、故に若者への政策より、高齢者への政策の方が得票に起因し、それでさらに若者への施策が蔑ろにされ、子どもを出産しなくなり、投票率が下がり、この繰り返し。
「日本のテレビ」は、日本少子化の象徴と言っても過言ではないかもしれませんね。
上記のような番組がますます若者のテレビ離れを招くでしょう。
「昭和世代」がいなくなったらどうなりますか。
テレビへの不信を抱いた「平成世代」がテレビを見なくなりますよ。
テレビの暗い未来しか私には見えません。そんな番組でした。
【短編】煙草
また、駄目だった。
面接に行ってみたが、結果はもうわかっている。
この学歴では面接してくれるだけでも有難いと思わなくては、といつも自分に言い訳している。
僕は、母子家庭に生まれ、高校卒業を期に働き始めた。
工場勤務を行い、何とか生きるための日銭を稼いできた。
稼いできたといってもそれほど格好の良いものではなく、月に15万円手にするのがやっとだ。
しかし、母を恨んだことは一度もない。
悪いのは父親だ。酒浸りの日々、母へのDVが続き、僕と母自身を守るために離婚したのだ。その諸悪の根源も今やどこにいるかもわからない。
その怒りの矛先を、向けるところも知らず、日々の労働のストレスと相俟って、いつも煙草に走ってしまう。
今回の面接は、事務職員の面接だった。
自分でもそれほど高望みをしているわけではない。
ただ、生活に安定が欲しいのだ。ただそれだけ。
資格が欲しくて、仕事の合間にパソコン業務の資格を取った。
それは自分にとって、とても達成感のあるもので、何か誇らしい武器を手に入れた気にもさせた。
しかし、現実はそう甘くなかった。
学歴のあるほかの皆は、ピストルを持っているのだ。
僕が磨いていたのは、ただのナイフだったことにはなかなか気づけなかった。
面接帰り、着慣れないスーツに身を包み、場違いにもオフィス街を落ち武者のように歩く自分がとても惨めで残念に思えた。
それと同時に周りの人間が恨めしくも思えた。
ちょっとした違いなんだ。
ちょっとしたボタンの掛け違い。
それがこうも自分と他人の隔絶となって表れる。
苛立ちを抱えて、駅近辺の喫煙所に足早に向かった。
ライターで紙煙草に火をつける。
工場の仲間では当たり前の光景だが、オフィス街では今時なかなか見かけない光景だ。
それもなんだが、寂しさを煽る。
喫煙所にある貼り紙に目を向けた。
「20XX年XX月より、加熱式煙草に限ります」
もう紙煙草も時代から捨てられるのか。
なんだが、自分に対して突きつけられている文章のように感じた。
自分より年下の大卒の工場責任者が言っていた科白が思い出された。
これからは、工場の仕事はロボットにとってかわられる。
思い切り煙草を吸いこんだ。
なんだが愛情が感じられた。
煙が口から溶けて、空中に消えていく。
自分が思っている以上の場所まで届く白い煙は、自分の可能性を表しているようで不思議と愛しかった。
Martin Zukor
転売ヤーに対して思うこと
コロナウィルスの世界的蔓延によって、マスクの需要度が異常的・莫大的に高まっている。
これに伴い、マスクの価格が急騰している。
そこで暗躍しているのが、転売ヤーだ。
当初は、わかりやすく、料金が値上がりしたが、その次に行った手立ては、送料の高騰だ。
私はこんな誰も見ていないブログだからこそ私見を述べるが、全くふざけた行為である。
火事場泥棒と同じ原理ではないか。
そして彼らはこう主張する。
「需要と供給のバランスで値段が決まるからしょうがない」と。
しかし、そうではない。
それは自由市場の原理に則った場合である。
今は有事の事態であり、自由市場ではない。
つまり、自由に取引ができないときである。
その時に、嗜好品や贅沢品ならまだしも、生命の危機から身を守るマスクでそのような暴利をむさぼるような行為をするのは言語道断である。
しかし、これは法規制をするしかない。
あるいは、この反省を活かし、政府は来てほしくはない未来への対策としてマスクや消毒液などを大量に備蓄しておくべきだ。
そして、その情報は秘密裏にしておいて、転売ヤーが大量に仕入れたときに、そのマスクや消毒液をマイナンバーなどに紐づけて公正に国民に配布するのだ。
そうなれば、転売ヤーが駆けずり回って、もしくはネットで目を凝らしながら、集めまくったマスクはすべて紙ぺら同等の価値に転ずるのだ。
さながら、ハイパーインフレを引き起こした過日のレンテンマルクのように。
子どもらがマスクを重ねて遊ぶのだ。
そうして、転売ヤーを駆逐するしかない。
あるいは、江戸時代の鼠小僧が出て来やしないか。マスクを抱える悪徳・転売ヤーの家に侵入して、マスクをばらまくのだ。
そして、私は、Eコマースはこうした転売ヤーの暗躍を助長していると考える。
今までのような「Face To Face」の取引ではないから、転売ヤーは全く罪悪感を感じることなく取引を行う。
当然、便利な点も多々ある。
しかし、面と向かってやり取りをしない分、やはり現実感がない相手とのやり取りは、そこから感情を奪う。
近年話題になっているあおり運転もそうではないか。
私も運転するときは、口が悪くなったりする(申し訳ない)
これは相手の顔が見えず、声も聞こえないという文脈のもと行われる。
やはり相手の顔が見えないと肌身を持って感じない分、感情の起伏が乏しくなるのではないか。
大事なのだなぁ。目の前の人と顔を突き合わして会話すること。
そういう私も、こうしてネットにブログを書くのである。
Martin Zukor
朝から気になる出来事
ズーカーです。
今朝こんな出来事がありました。
毎朝通勤電車に乗っているのですが、乗り換えの駅でホームに降りた。
もう人だかりでごった返し。
まぁ日常の風景。
けど、非日常の景色が一つだけあった。
後ろに歩く女性が泣いていた。
携帯電話の画面を必死に見ながら、泣いているのだ。
「充電もあと7%しかないし」とそんな科白も聞こえてきた。
私の推測は以下の通り。
その電車は遅れていた。
きっと人生一世一代の大勝負をかけたオーディションか入学試験が本日あるのだろう。
それに遅れてしまうのだろう。
そんなところだった。
しかし、内実は異なっていた。
あまりに泣いているので、私は気おくれしたがその女性に声をかけてみた。
「大丈夫ですか?」
すると、意外な返答が返ってきた。
「スリに遭ってしまって。財布を取られてしまって」
この世の中、スリに遭うのか。
駅員さんに伝えたほうがいいことや充電が足りなければとモバイルバッテリーを貸したりと私のできる限りのことを行いました。
最後、なんて声をかけて慰めればいいかわからなかったのですが。
きっといいことあってほしいな。
皆さんも盗難にお気を付けください。
Martin Zukor
負けず嫌い?負けるが勝ち?
私は負けず嫌いである。
とにかく負けることが嫌いだ。
なにかのゲームをやって、納得できない結果が出ると、いつまでもやってしまう。
だから、小学校の時も勝つまでやり続けた。
今でもダーツが趣味だが、これも負けず嫌いから生まれた趣味だろう。
けど、考えてみると負け「ず」嫌いっておかしい。
「ず」は打消しだから。
「負けない嫌い」=「負け好き」になってしまう。
日本語ってなんだか変だ。
負けるが勝ちなんていう言葉があるが、これも理解できない。
かなりのパラドックスを抱えているからだ。
けど、「負け」に確かに意味はあると思う。
「負ける」ことでそれを成功するまでやり続けようとするモチベーションが生まれるからだ。
つまり「価値」はある。
私は今日からこんな言葉を作ろう。
「負けるが価値」
Martin Zukor